仕事以外の話で、1時間雑談せよ
入社間もないある日、「まだ何もわからないお前に、商品を売ってこいとは言わない。そのかわり、とにかく1時間お客さまと話せるようになってこい」と上司から指令が出されました。(契約を取るんじゃなくて、雑談してくるだけなら余裕だ)と思った僕は、「わかりました!」と軽い気持ちで返事をしました。
ただし指令には、条件があったのです。
・最初は数分でもいいから、お客さまと話が続くように努力する
・ありきたりな天気の話などは、いっさいしてはならない
この決まりを守って雑談をしてくるようにと言われた僕は、張りきって担当している病院へ向かいました。運よく先生と顔を合わせる機会を持つことができ、さっそく雑談開始です。
しかし、いざ会話をしようとしたら、どんな話題を選べばいいのか、全く思いつかない。
まだお互いをよく知らない者同士が、無難な話題抜きで話をする難しさに、やってみて、初めて気がついたんです。焦った僕は、向かい合う先生の反応を窺う余裕もなく、ひたすら喋り続けました。
無我夢中すぎて、冷や汗の出る時間をどう切り抜けたのかは、全く覚えていません。自分の予想とは裏腹に、ミッションは、見事失敗に終わりました。その後も、病院スタッフさんや先生を見かけたら、話す機会を逃さないようにしましたが、最初の頃は10分程度、間を持たせるので精一杯でした。
しばらくして、ふと「このままでいいのかな」と立ち止まったんです。そして、今までの行動を振り返りました。僕は目的を遂行するために、ひたすら先生や事務長さんへ、ぶつかっていった。でも、もっと相手の状況を見て、話す・話さないを判断するべきだったのではないかと。
相手を思いやった会話をしようと考え直してからは、先方の予定や都合を頭に入れて、場の空気を読みながら行動するように努めました。
「今は忙しそうだから止めとこう」「患者さまが帰られて、ひと段落ついたみたいだから、声をかけてみようか」など、相手に配慮して口を開くように心がけたんです。すると、会話のキャッチボールが上手くいきだしました。
良い手ごたえを掴めた僕は、一方では、自分という人間の中身を知ってもらうことも大切なのではないかと感じていました。そこで僕自身についての情報を、会話に盛り込むようにもしました。
「転勤でこの土地に来ました」「学生時代は、スポーツをしていましたね」こちらから心を開くと、相手も乗ってくださる。自然に雑談が続くようになりました。医院を訪問すると「ひと休みしてお茶でも」と紅茶やコーヒーを出してくださるようにもなって、いつのまにか1時間のミッションは、クリアしていたんです。やがて先生との仲が深まるにつれて、雑談は相談や依頼へと広がっていきました。
入社して十年以上が経ち、僕は雑談を楽しんで仕事をしています。以前まで携帯していた当社の手帳型の社員心得には「商品を売る前に自分を売る」と書いてありました。上司が僕に伝えたかったのはこの精神じゃないか。新入社員時代の自分を振り返り、今ではそう考えています。
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普段は患者さんへの対応で出入りの業者と話す余裕がない先生方にも、ぽかっと時間が空くことがあります。そんなときに「ちょっと座って、お茶でも一緒にどう?」と声をかけてもらえるのは、目をかけられている証拠であり、信頼関係が成り立っているからこその誘いです。
若い部下たちには、お客さまに自分を知ってもらい、信用されて可愛がられる存在であれ、と指導をしています。先生と、仕事の話以外の雑談をしながら一緒にお茶を飲む時間を持てるようになったら一人前と言っているんです。
年配の開業医さんたちから見たら、若手の営業社員は子どものようなものでしょう。皆さん、「ウチの子と同じくらいの歳だわ」「若いのに頑張っているね」と、自分の息子の成長を見守り「育てる」気持ちを持って、部下たちと接してくださいます。
入社年数の浅い社員は、豊富な商品知識や完璧な対応など求められていません。謙虚に、勉強をさせていただく気持ちで、先生方の懐に入りこむ。誠実な対応が一番大切だと、僕は信じています。
目指すのは、病院の方々に親しみを持たれ、応援される自分。
取引先と関係を深める機会を上手く活用できるか・できないかの違いが、数字に影響する。
人間関係の濃淡が、営業成績に反映するのが、この仕事の特徴です。顔見知りの営業社員から
〝可愛いがっている○○君〟へと扱いが変われば、自然と注文は得られるようになるんです。
だから部下から「今日先生と1時間雑談をして、お茶を出されました」と報告を受けると、「ああ、もう大丈夫だ」と安心します。
もちろん「大口の新規契約を決めてきました!」と知らされたら、そりゃ喜びますよ。
でも僕は、お茶を振る舞われるような人間関係を、部下がお客さまとの間で築けたと聞けたときが、一番嬉しく感じますね。
