『挨拶から始まった』


「こんにちは」病院の廊下にいる僕を見て、先生の方から先に挨拶をしてくださった。

その瞬間を、僕は今でも覚えています。

会社と取引のない病院を開拓し始めたのは、一年前でした。新しい商品のPRを足掛かりに、先生のもとへ定期的に顔を出せる間柄には、比較的早くなれたんです。僕から挨拶をすれば、「ああトミキさんね」と、会話もできるようになりました。 でも自分が声をかけなければ何も起こらない。一方通行の関係が、ずっと続いていました。

たまに顔を見かける営業社員だけれど、病院とは契約もないし、情報は持ってくるなら聞いてあげよう......たぶん先生はそう考えられていたのでしょう。でも僕は、自分が話すだけではなくて、先生からお話を聞かせてもらえるようになりたい、と思っていました。何かあったら僕の顔が思い浮かべてもらえる、そんな関係を、先生との間で築きたかったんです。

「特にお願いする用事もない、業者さんのひとり」と思われているのは承知のうえで、 僕は季節が変わっても、病院の定期訪問を続けていました。先生への挨拶と、邪魔にならないタイミングを見計らっての役立つ情報のお届けは、そのうち習慣に変わりました。その日もいつも通り、先生が診察から戻られるのを待っていました。

廊下の前方に、先生の姿が見えてきます。すると自分が口を開く前に、目で僕の姿を認めた先生が、「あ、こんにちは」と先に言葉を発してくれたんです。これまでとは違う先生の行動パターンを見て、僕は自分が認められたと実感しました。

今まで僕は病院で、背景のような存在でした。でも挨拶を向こうからしてくださった瞬間からは、先生の世界に僕がひとりの人間として登場したんです。

お互いに挨拶を交わすようになって、全くなかった契約は、少しずつ増えています。物品を準備してほしいと頼まれるようにもなり、一緒に会話をする時間は長くなりました。

全ての始まりとなった、あの一瞬を、僕は鮮明に覚えています。